日本人宿「シェ山田」
シェ山田の横には商店があるので、朝からパンやバターを買って宿にていただきました。キッチンも冷蔵庫もあるので自炊も可能。
常備しているピーナッツバターがあるのでとても満足な朝ごはん。
お昼ご飯には、再び山田さん行きつけのシェ・バッジへ。ヤッサを食べに行ったのですが、ランチは日替わりのようで本日は「チェブジェン」。
お魚を使った炊き込みご飯のようなものです。味も辛くなくて美味しい!
シェ山田の前の通りは未舗装路。たまに空いている穴には漏れなくゴミが投げ捨てられています。
この日は、私たちよりずっと前からお仕事で滞在中のお二人がケーキを買ってきてくださいました。H田さんとM田さんは、世界中の途上国にて電気を届けるお仕事をされています。
毎日食べて寝ているだけの私たちとは真逆で、かなり忙しそうなお二人。日本から持ってきている美味しいコーヒーもご馳走になってしまいました。
夫のお義父さんも然り、途上国に赴任する技術者の皆さんは、過酷な環境下での長期滞在となります。同じ感覚を持った日本人と働く訳ではないので、私たちの中での「当たり前」が通じない人々と働くということはどんなに大変なことでしょうか…。言葉も文化も違うところで指示を出すなんて、本社勤務の人が地方支社の責任者として赴任する、という状況より遥かに厳しいはず…。
しかしお二人を見ていると実に生き生きとしていて、まさに天職なんだろうな、と羨ましくなりました。お二人もやりがいを感じていることでしょうが、何より、お二人のお仕事は世界中の途上国の人々の生活を助けています。
夜ご飯にピザまでご馳走になってしまい、本当に申し訳ない…!楽しそうにお仕事のお話をする二人を見て、私も夫も仕事が恋しくなりました。二人のお仕事が忙しくなかったらもっとお話をお聞きしたかった…!
Nホリさんがご出発されたので、今日はドミ部屋を貸し切りです。
シェ山田は毎日洗濯の無料サービスがあり、手洗いをしなくて済むので本当に助かります。
オーナーだけど友達のような、たまに本音がぽろっと出てかわいい弟のような、絶妙で居心地の良い山田さん。
彼はいつも程よい距離感に居てくれて、暇を持て余していると軽快なトークで私たちを楽しませて下さいます。
みんなでワイワイと楽しんだ後は、扇風機を直風で設置して就寝。
ゴレ島
今日は世界遺産にもなっているゴレ島に行ってみることにしました。
ゴレ島は、その昔奴隷貿易の拠点となった島で、現在は観光地となっています。
まずは船乗り場まで行くためにシェ山田の近くを通ったタクシーと値段交渉。一度は決裂したものの、私たちがタクシーを離れていくと運ちゃんに「わかったよ、乗れよ」と言われ値切りに成功。
それを見ていたおじいちゃんから、「立派なセネガレーゼだ!」と褒められて嬉しい。
ゴレ島にはプラトー地区から船で渡ります。ンゴール島の船とは違うしっかりした船なので安心。
チケットを買って、売店を物色。
サータアンダギーみたいなお菓子があったので買ってみました。
味も形もまるでサータアンダギーでした。美味しくて船に乗る前に完食してしまいました。
船が到着しました。観光客と地元の人が混ざって乗船。ちなみに料金は、セネガル在住者、アフリカ在住者、それ以外、で値段が異なります。私たちは一人1000円くらい。
ゴレ島が近くに見えてきました。ドキドキします。
ゴレ島に上陸すると、みんなバラバラと自由に降りて観光スタート。と思いきや、チケット売り場の人に呼び戻され、入島料を支払います。気がつかない人も多そう…。
先にご飯食べちゃう?と夫と話していると、背の高い自称ガイドの男性が英語で話しかけてきました。
もともとガイドを付けて回りたかったので、値段を聞いてみると10,000セーファ(2,000円くらい)。問題なかったのですが、先にお昼ご飯を食べたかったため、1時間くらい後からガイドして欲しいと伝えると、私の英語力のなさのせいか、「じゃあ8,000セーファ(1,500円くらい)でいいよ!」となぜか安くなりました。
安くしてくれるのはありがたいんだけど、昼ご飯食べるの待っててくれる?と念押しで言うと、私たちが値切った訳ではなかったことを理解した上で「ああ、そういう事だったのか…わかったよ、1時間後に来るね…」と少し落ち込みながらもおすすめのレストランを教えてくれました。
彼が教えてくれたレストランは、ンゴール島よりも安く、何よりもヤッサがありました。
ソース少ないな…と思いながらも90点のおいしさだったのでご機嫌で貪り食べていると、お店のお母さんが「おかわりいる?」と聞いてくるではありませんか…!おかわりいる!!
何ということでしょう。贅沢にもボールに入ったソースを持ってきて下さいました。もう100点です。エンドレスヤッサです。
たらふく食べた後は、ガイドの彼と島内を周ります。
フランス語ガイドは絶対に無理、英語ならなんとか、と思ってお願いしましたが、私たちにはなかなか厳しいガイドツアーとなりました。
この辺の建物がなんだったのか全く記憶に残っていませんが、ガイドの彼が途中でいとこに呼び止められ、電気代だか水道代を払ってないとかでケンカをしていたのだけはしっかりと覚えています。
ゴレ島にはお土産屋さんもたくさんあります。途中で砂絵の工房も見せていただきました。
小さい頃に砂絵にハマった事を思い出しました。荷物になるのでお土産は購入せず。
椰子の木かと思ったら、よく見るとスピーカー。よく作ったものです。
丘の上に行くと、日本語ペラペラのお兄さんが。彼もまた砂アートを製作していました。日本に住んでいたことがあるらしく、「赤羽」という単語が出てきて驚きました。
恐らく島で一番の見所である、「奴隷の家」にやってきました。
1階部分が「商品」である奴隷が出荷を待つ場所、2階が商人の部屋だそうです。2階は工事中だったので、今回は1階部分だけ見学させていただきます。
こちらは子供専用の奴隷部屋。女、子供、男と部屋は分けられており、体重が60kg以上の男は高く売れるので、60kg以下の男は麦やコーンなどを食べさせられ、太らせてからの出荷となったそうです。
女の子も高く売れたそうです。子供と母親は別の部屋に入れられ、母親は壁を隔てて子供の泣き声を聞いていたそう。
今では人のすることとして考えられませんが、人が人を物として扱う時代があったことは事実です。アフリカに来ていよいよ辛い人間の過去に触れることになりましたが、私たち日本人もそうそう非難出来ることではありません。私たちにも目を背けたい過去の罪はたくさんあります。
こちらは所謂「お仕置き部屋」。脱走や自殺を試みた人はこの階段下の狭い空間に押し込められたそうです。脱走と言っても海に囲まれた島のため、どちらにせよ命を絶つ事を選んでいたのでしょう。
「Door of no return (帰らずの扉)」と呼ばれている海に向かった出口。ここから彼らは出荷されて行ったそうです。大西洋を渡りアメリカ大陸に売られて行く彼らが、アフリカ大陸と別れる最後の場所。
手にも足にも鎖をかけられ、長い航海の中生き延びられない人も多かったとか。生き延びてアメリカ大陸に辿り着いた暁には、今度はプランテーションでの過酷な労働。そして船は砂糖や綿花を積み、ヨーロッパに向かいます。これが「大西洋三角貿易」…。今のアフリカ以外の世界の発展は、彼らの労力なしには叶わなかったことでしょう。
私たちがアメリカ・ルイジアナ州で訪れることこそ出来なかったけれど、行きたくて調べた広大なプランテーション、スペインからポルトガルに南下して訪れたのは大航海時代の象徴でもあるロカ岬。
全てが繋がっていて、それぞれの国の発展とともに犠牲になった人たちがいたことを知ります。歴史というものをこれほどまでに重く考えたことはありませんでした。当たり前だけど、教科書の中だけの話ではなく、全てがあって現在の世界になっているんだ。
ゴレ島にはそんな暗い過去を感じさせないくらいののんびりとした平和な空気が流れていて、人々は笑顔でこんな無知のアジア人に話しかけてくれます。
帰りのフェリーに乗りながら、映画「Amazing Grace」を思い出していました。
「アメイジング・グレイス」は知らない人がいないほど有名な歌ですが、この歌がどのような歌なのか、この映画を観て初めて知りました。
この曲の作詞者は元奴隷船の船長で、彼が奴隷貿易に関わった事を悔い、それでも赦してくださった神への感謝の気持ちを綴ったものがこの歌です。
奴隷解放の後も現代まで続く人種差別や人身売買。全てがなくなる時代は来るのでしょうか。
生まれた頃から選択する自由があり、満足な暮らしを送って来た私の境遇に感謝するとともに、頭を殴られて目が覚めたような感覚を味わいました。
未だに奴隷時代の尾を引いて発展途上にあるアフリカ諸国。
旅行者の私から見ると交通ルールはめちゃくちゃだしインフラは整っておらず、衛生的にも心配。それでもそこで暮らす人々がいました。そこには生活がありました。彼らの生活を向上させるために尽力している人々がいました。
モロッコにいた時に、「砂漠の中にホテルなんか建てずにそのままでいて欲しい」と強く思っていましたが、発展を遂げた自国に自然が残されていないからと、まだ途上中の国に自然を求めて出向き、そのまま発展しないで欲しいなんて、なんて傲慢な考えだったんだろうと恥ずかしくなりました。
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